末永委員 |
これからこの協議会において、様々な形で議論されると思いますが、先程重徳課長さんの冒頭の挨拶にありましたが、具体的な形で、あまり先進的な事例だと踏ん張らなくとも、ここの実態にあった形での合併の方向を模索していくべきだろう、と思います。
私は、青森県の産業構造的なものを、歴史的に見るということを、やっています。
青森県だけでなく、市町村合併というのは、大きくは御承知のように今度が3度目だと思っています。1度目は、明治22年の市制町村制施行の時であり、この時は、江戸時代までの制度を廃止し、近代的な行政単位を作るんだとそれなりの夢はあったと思います。その時は今回の合併と異なっており、ある程度、上から強引な押し付けがあった結果として、明治22・3年〜30年ごろにかけて逆に分村運動が非常に起こってきた。例えば天間林村が典型的にそうです。天間林村は、榎林村と天間館村まったく違う村が1つに括られてしまった。それで天間林村となったが、そこは明治30年代に盛んに分村運動が起こった。それでは合併という意味が失われてくる。当時強引に行われたことは人口比だけの単位での合併であった結果であろうと思います。その時は地域の結びつき、文化、経済等の結びつきを無視したという蹉跌は決して踏んではならないだろうと思います。
又、昭和30年代からの高度成長の直前において市町村合併が行われました。その時非常に抵抗したのが青森県内で青森市と野内村の合併です。野内村はその後8年間かけてようやく合併しました。実は私少し調べたことがあったんですが、この時、多分、野内村は、浅虫温泉と言う非常に有力な観光地を持っていました。浅虫温泉を視野に入れた1つの自治体経営をしていこうとした時に、青森市に合併すれば非常におぼろげになってしまう。という理由で野内村は強引に反対したんだろうと思います。それも故無きことが、けっしてなかったことだったんです。
したがって平成の大合併といいましょうか今回の合併は、先程重徳課長さんが言いましたように、大きな構造転換の時期にさしかかっていることは確かであると思います。
例えば少子高齢社会であり、財政問題であり、またはITなど情報ネットワーク等が進んできているなど、様々な条件があります。
そういう条件を十分考えながら、自主的に五戸・倉石・新郷の地域をより新しい方向に発展させるには、どういう方法がよいのか?。それが一つの合併という方法なのか?という事を具体的に協議されていくべきなのではないでしょうかという気がしております。
私はそんな形でこれから議論の中に参加させて頂きたい。
先程も言いましたように強引に合併を推進して行くと必ず失敗してしまうということは確かである。その辺りを十分に考えて頂きたい。
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