国・県・町文化財
江渡家住宅
天明年間(1781~1788)に飢饉救済事業として建てられたもので、大規模な寄せ棟造りのカヤブキ屋根です。
当時の原型をほぼそのままにとどめています。
(国重要文化財 昭和48年2月28日指定 個人所有)
南部駒踊
南部藩時代に行われた野馬捕りの動作を芸能化したものです。軍馬育成の方策として馬を放牧することは鎌倉時代以前から行われていましたが、秋になって舎育するため、この馬を集める者たちが馬を乗り廻して牧袋(駒袋)に追い詰める馬術のさまを表現しており、動作の端々に乗馬の技術が取り入れられています。
石沢集落は、南部九牧の一つである又重野の牧袋(駒袋)の入口にあり、駒集の場所となったところが駒袋という字名で現存しています。(石沢の駒踊は300有余年の伝統があるといわれています。)なお、異説には駒踊は供養踊りに発したろうとも、妻求めの芸能化とも説くものがあります。(県無形民俗文化財 昭和37年6月29日指定 保護団体 南部駒踊石沢保存会)
寶福寺
寶福寺の始まりは正応年間(1292年頃)と伝えられています。明応元年(1492年)法光寺2世安葩昌舜和尚が現在地に禅寺として再開山しました。本堂は嘉永2年(1849年)火災にあいましたが再建のため、盛岡報恩寺から迎えられた第17世箱石鶴州が宮大工を引き連れて臨むなどの尽力により、安政6年(1859年)8月1日完成しました。県指定となったのは本堂1棟と棟札1枚です。本堂は江戸末期の特徴をよく表し、延床面積は約93坪、天井は寄棟造型化粧屋根裏という珍しい構成となっています。 (県重宝建造物 平成7年4月19日指定 個人所有)
旧圓子家住宅
旧圓子家住宅は、江戸時代の武士であった圓子氏の住宅です。圓子氏は「九戸の乱」(1591)の後に中市に居を構え、南部藩直命の山奉行となったと伝えられています。現存している住宅の建築年代は江戸時代末期で比較的新しいが、保存状態が非常に良く建築当時の様子を良好に残しています。また、玄関・式台・塀重門の関係を残している武士住宅は県内では本住宅だけです。(県重宝建造物 平成13年6月29日指定 町所有)
五戸町消防団第一分団屯所
1913年(大正2)に大火で焼失した屯所と同じデザインで22年(大正11)に建て直されました。高さ12.7㍍、望楼付き 木造2階建ての屯所で1940年(昭和15)に消防自動車が配備されたため表側が増築されました。外壁は下見板張りで、2階に半円アーチ窓を用いるなど洋風デザインと近代建築の特徴が外観に現れています。赤いドーム屋根付きの望楼を持つ同屯所は県南地方の代表的なデザインで、現在も消防屯所として使用されています。 (県重宝建造物 平成15年7月14日指定 町所有)
五戸代官所の門
五戸代官所は、明治2年4月26日廃止され、斗南藩庁、青森県庁五戸支庁舎、五戸小学校などに使用されました。代官所の門は、明治初年に5円で三浦重吉が払い下げを受け、15円をかけて運搬、修理して家南側に建てたと伝えられています。この門の建築年代は不明とされていましたが、十和田市滝沢のある家で保存している文書には「文久二年戌二月、広瀬務、重茂直見、滝沢村肝入、御山守の名で、栗十五本、松二十本、〆三十五本、五戸通御代官所新規建替、御普請のため入用で、滝沢村漆畑山から切った」とあります。このことから、文久年間(1861~1863)の建築と推定されます。現在は、歴史みらいパーク内五戸町図書館近くに保存展示しております。(町文化財建造物 昭和49年9月20日指定 町所有)
石冠
「石冠」は、上蛇沢(2)遺跡(五戸町大字切谷内字上蛇沢)から出土し、青森県の縄文時代中期(約5,000年前)の代表的遺物である石冠の要素(形状、文様)を持ち、特異な石材を用いることで、外に類例がないものとなっております。完形であり、出土状況も明らかであることから、後世に伝えるべき五戸町の有形文化財(考古資料)と認められました。ごのへ郷土館内に、展示しております。(町文化財考古資料 令和5年4月13日指定 町所有)
DC351
DC351は、昭和42年(1967)に南部鉄道から加悦鉄道に譲渡された35t機です。昭和31年の汽車会社製で、客車や貨車を牽引する他に、冬季は可動式のスノープラウを装着して除雪にも使用されていました。
DC351は昭和42年に南部鉄道を離れたため、翌昭和43年の十勝沖地震の被害から逃れることができ、かつて南部鉄道で使用されていた機関車両としては、現存する唯一の車両として、加悦SL広場(京都府与謝野町)で展示・保存されていましたが、加悦SL広場が、閉園となったため、五戸町が譲り受けました。
そして令和4年4月に、55年ぶりに五戸町に戻ってきました。現在は、ごのへ郷土館に、展示・保存しております。(町所有)